感動と腐敗

国立競技場

東京オリンピックが閉幕しました。

数々の勝負があり、様々なドラマがあり、喜びや涙があり、多くの方に感動を与えたスポーツの力というのは偉大だな、とあらためて感じました。

スケートボード女子パークで金メダル候補と言われていた世界ランキング1位の岡本碧優選手が先行する四十住さくら選手を抜いて上にいくために果敢に挑んだ大技で着地に失敗、4位に終わってしまいましたが、そのチャレンジ精神を称えるかのように日本人選手だけでなくその場にいた外国人選手もみんなで岡本選手に駆け寄り抱きかかえるシーンは、国も人種も文化も勝敗も越えて人は皆1つになれるんだという素晴らしさを象徴していたような気がして、私もとても感動しました。

しかし、この素晴らしいステージを作り上げるまでの過程が、賄賂で得た招致、エンブレムデザインの盗作、女性蔑視や容姿の侮辱、いじめや差別、世界一お金がかからないと言いながらかかってしまった巨額の費用、大量の食品廃棄、コロナ過における開催、守られなかったバブル、などなど、およそスポーツマンシップとは程遠い、むしろ真逆とも思える中身であったことが感動に水を差したと言いますか、素直に喜べないところでもあります。

そもそもこの暑い時期の東京でスポーツイベントを開催するのがどれだけ危険であるかというのは招致の段階で多くの方が言ってたことだし、結局暑さでスケジュール変えたり、中には競技の参加・継続ができない選手が出るなど、それみたことかという結果になったわけで、わかっていながら時期を動かせないのはアメリカのTV局の事情でしかなく、つまりオリンピックそのものが競技やアスリートを中心に考えられたものではなく、所詮はスポンサーファーストの商業イベントに過ぎないという根本的なところで「選手よりマネー」という腐った連鎖の根源になっているということもあらためて世界に知らしめたわけです。

オリンピックが終われば次はパラリンピックが待っています。パラリンピックこそオリンピックより差別やいじめのない社会を表す象徴でもあるわけですから、運営はパラ選手たちに対して恥ずかしいことをしていないかと自問自答してほしい。今一度オリンピック精神に立ち返り、その存在意義を確かめてほしい。

それができないならオリンピックなんてもうやめちまっていいと思います。