参院選公示

今日、参院選が公示され、7月10日に向けて選挙戦がスタート。

 

昨日は報道ステーションでの党首討論を観ました。

自公は相変わらず上っ面なことしか言わないなー、しかもその言葉も全然こっちに響いてこないなーってのが私の印象。

じゃあ野党が鋭く切り込んでるのかと言えばそうでもなかったり・・・・。

尖ってたのは太郎くんくらいかな。

 

今回の選挙で一番の争点はやっぱり経済なんでしょうか。

でも、アベノミクスと連呼されても庶民には全然実感がないよね。アベノミクスを加速とか後押しとか言われても、そもそもアベノミクス自体が空虚に感じる。いっぱい矢を打ってるようだけど、実は打ってるフリだったり、味方の背中に打ってたりしない?アベノミクスと呼ばれるものが本当に効果を発揮してるのであれば消費税だって予定通り上げられたんじゃ?

過去の選挙でも経済対策が争点の一つにはなってきたけど、蓋を開けてみれば経済とまったく関係ない安保法案とか、結局議席を取るためにエサ撒いて議席取ってしまえばやりたい放題って気がとてもする。

やっぱりね、上っ面のおいしいエサだけじゃなく、エサを撒いてる人が実際にどんな人でどういう考えを持っているのか、そこをしっかり見極めないといけないなって思います。

 

ついこの前も、この人いい人っぽい、この人なら大丈夫かな、と思ってた人が実はそうでもなくて、あとから悪評なんかも耳に入ってきたりしたもんだから、こんなこと書いてる自分もおいしいエサを前にしたらコロッと乗っかっちゃうんだって自分で自分が怖くなったよね。詐欺とか悪徳商法にひっかかる人を「アホだなぁ」なんて笑ってられないですよ。あ、私は特に実害受けてませんし、結果的に関わらずに済んでよかったです。

常に疑心暗鬼の目で人と接するってのも好きじゃないけど、面識のない人を簡単に信じちゃうのもいけませんな。騙す人になるくらいなら騙される人でいた方がマシと思いつつ、一番大事なのは本質を見極める目だなってあらためて思いました。

 

笑顔で優しくいいこと言ってくる人が本当はどんな人なのか。

名前を知ってるからとか、知人に勧められたからとか、本質を見ないで重大な決断はしない方がベター。

昨日の報ステも表面だけ見てるのと、その裏でどんなこと思ってるのかって探りながら見るのではかなり印象は違ったはず。

 

ホントはね、そんな疑り深い目で見ることなく直球の言葉を素直に信じられて、ちゃんと約束を守ってくれる人だったら一番いいんだよね。

ウソつく人、約束を守らない人、自分のことしか考えない人、そういう人とは関わりたくないです。

 

選ぶ責任

メディアに都民にフルボッコの舛添都知事は結局は辞任になるようで。

都民じゃない私が口出しすることじゃないかもしれませんが、連日の過熱報道にはちょっとウンザリな感じ。

元々は舛添都知事本人の自業自得とはいえ、弱った相手をさらに殴る集団リンチのように見えてこの叩きようは見ててあまり気持ちのいいものではないです。

そもそも、舛添氏を選んだのは他ならぬ都民の皆さんなんですよねぇ?

ニュースでは都議会を傍聴した方が「納得できない」と怒りの声を上げてる映像が流れてますが、ああいう方々はもちろん舛添氏以外に投票した方なんですよね?それとも選んだからこそ怒ってるのでしょうか?投票に行かなかった人は論外ですけど、舛添氏に投票した方は自分たちの選んだ責任ってものがあるんじゃないかと思うのですが。

私もさすがにここまでヒドいとは想像してませんでしたけど、前回の都知事選の段階で舛添氏には良くないウワサが多々あったし、宇都宮氏や細川氏など少なくとも舛添氏よりはマトモな候補者もいたのですから、有権者がしっかり見て精査した上で投票してればこんなことにはならなかったんじゃないでしょうか。

で、自分たちで選んでおいてそいつがヘタこいたらフルボッコって、なんだか勝手なような気がします。

 

そして、何のワイドショーか知りませんけど、次の都知事候補のアンケートで橋下・東国原・猪瀬なんて名前が挙がってたりして、東京都民の皆さん、ホントに大丈夫かなって思います。

橋下・東国原まではわからんでもない(私としては100%ナシだけど)けれど、猪瀬ってどうしたらこの名前が挙がるのか意味がわかりません。

舛添氏はこのタイミングで辞任すると4年後の都知事選が東京五輪と重なることを危惧してるようですが、肝心の都民がこんな感覚だと4年待たずしてまた都知事選になるんじゃないですか?

都知事選の費用って1回49億円くらいかかるらしいですよ?5000万円でモメた猪瀬を下ろしてその100倍くらいの費用をかけて選んだ舛添を下ろしてまた49億円使うんですか?4年の任期を全うできる人を選んで使わずに済んだ税金を他に使った方が都民の暮らしは良くなるんじゃないですかねぇ。

 

誰が立つかも重要だけど、誰を選ぶかというのをもっと大切に考えた方が良さそうです。

 

ダメなもんはダメ

三菱がフルボッコでスズキは何となく許せる。

ベッキーとゲスがフルボッコでファンキーは何となくまぁまぁ・・・・。

舛添がフルボッコで甘利は不起訴でスルー。

 

んーと、前者と後者で何が違うんでしょ?

ダメなもんはダメなんじゃないの?

 

なんだか本質とズレたところで世論が踊らされてる(あるいは誘導されてる)んじゃないかなーって気がする。

 

特に舛添は都民も議会もマスコミもあれだけ叩くなら舛添に投票した有権者も批判されてもおかしくないだろうし、都知事より国会議員である甘利の方が問題として重要なんじゃないの?

 

叩きやすい方を叩くのではなく、悪いものは悪いと正すなら全部じゃないですかねぇ。

 

福島の甲状腺がん

先日、いつもの甲状腺がん調査の報告がありました。

昨年暮れの報告からまた増えて、172人確定・57人疑い。

注目すべき点として、原発事故当時5歳だった子どもが甲状腺がんまたはその疑いという結果が出たこと。

福島県の県民健康調査検討委員会は調査の度に「原発事故との因果関係は考えにくい」とお約束のように繰り返してきましたが、その根拠の一つとして「事故当時5歳以下の子どもで甲状腺がんが発見されていない」というものがありました。チェルノブイリでは0歳~5歳の子どもの多くが甲状腺がんになったのに対し、福島では5歳以下の子どもで発見されていないので原発事故が原因ではない、という解釈なんですね。

しかし今回の調査では1人ですが当時5歳の子どもからも発見され、その根拠が覆されるのかと思えば「1人出たからと言って評価を変えることはない」として、またも原発事故との因果関係を認めることはありませんでした。

 

じゃあ何が原因なんでしょうね?

原発事故前から甲状腺がんはあった病気ですけど、事故後から急激に増えているのを客観的に見れば原発事故が原因だと、少なくとも原発事故が原因だと断定はできないが可能性はある、と考えるのが自然なんじゃないかなと思うのですが。

原発事故が原因じゃなかったとしてもこの増え方は正常とは思えないので、原発事故が原因でないならいったい何が原因なのか、その究明をするべきでは?

甲状腺がんの子供の数の変化

 

結局のところ、加害者を特定し、保障・賠償の責任を負いたくない逃げの口実じゃないんですかね。

過去の公害でも同じ事が繰り返されていますし。

新潟水俣病でも未だに認定する・しないなんてモメてるくらいで、責任の所在をハッキリさせるのも大事なんですが、何よりも今苦しんでる人たちを救済し、この先苦しむ人が出ないようにすることこそが最優先じゃないかと思うのですが。何十年も苦しんだ挙句に賠償されても遅すぎですよ。

 

原発事故から5年を過ぎ、チェルノブイリでは5年を過ぎたあたりから健康被害が急増したという話があり、私もそれを危惧してこの5年間ずっと被曝回避を続けていますが、今回の調査では数は増えたものの急増とまでは言えない状況。チェルノ事故当時5歳以下の子どもに甲状腺がんが発症したのは早くても事故から7~8年過ぎてからという報告もあるので、目に見えて増えるのはもう少し先かもしれません。

この前、某SNSで「放射能で騒いでる連中は健康被害が増えてくれないと都合が悪いんだ」みたいな内容を見かけました。私みたいに被曝を気にしてる人がワーワー騒いだもんだから、その通りにならないとバツが悪いってことなんでしょう。

もしかしたら中にはそういう考えの人もいるかもしれませんけど、被曝を気にしてる人で健康被害を望んでる人なんてほとんどいないんじゃないですか?少なくとも私が関わってる人たちの中にはそんな考えの方は一人もいませんし、もちろん私もそんなの望んでなんていません。

事故から5年経って、この先10年20年経ってもたいした健康被害が起きなかったらそれが一番いいに決まってるじゃないですか。

起きるか起きないかわからないから気を付けてるんであって、精神的にも金銭的にも負担のかかる被曝回避をこの先も続けていって、それが結局ムダだったとしても逆の結果になるよりはいいでしょう。ガン保険に入ったからって死ぬまで一度もガンにならなかったら損をしたと思う人、います?

何も起きなければそれがベスト。ただ、わからないから少ない可能性であってもスルーしないで最悪に備える。それだけのことです。

 

福島の検討委員会の皆さんも、そういう気持ちで子どもたちと向き合ってくれたらいいと思うのですが・・・・。

 

謝罪、反省、未来

昨日、広島を訪れたオバマ大統領のスピーチ全文和訳。

自分の備忘録の意味も含めて転載です。

 


71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?

私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。

私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、12人のアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。

彼らの魂が、私たちに語りかけています。彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、内省するようにに求めています。

広島だけが際立って戦争を象徴するものではありません。遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。フリントから刃を、木から槍を作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たち人類に対しても使ったのです。

どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きてしまいます。

多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そして時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたことに苦しめられました。

広島と長崎で残酷な終焉へと行き着いた第二次世界大戦は、最も裕福で、もっとも強大な国家たちの間で戦われました。そうした国の文明は、世界に大都市と優れ た芸術をもたらしました。そうした国の頭脳たちは、正義、調和、真実に関する先進的な思想を持っていました。にもかかわらず、支配欲あるいは征服欲といっ た衝動と同じ衝動から、戦争が生まれたのです。そのような衝動が、極めて単純な部族間同士の衝突を引き起こし、新たな能力によって増幅され、新たな制限の ないお決まりのパターンを生んでしまったのです。

数年の間に、およそ6000万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供、私たちと 何ら違いのない人たちがです。射殺され、撲殺され、行進させられて殺され、爆撃で殺され、獄中で殺され、餓死させられ、毒ガスで殺されました。世界中に、この戦争を記録する場所が数多くあります。それは勇気や勇敢な行動を綴った記念碑、言葉では言い表せないような卑劣な行為の名残でもある墓地や空っぽの収容所といったものです。

しかし、この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは人間の中核に矛盾があることを非常にくっきりとした形で思い起こすのです。

私たちの思考、想像力、言語、道具を作る能力、そして人間の本質と切り離して自分たちを定めたり、自分たちの意志に応じてそうした本質を曲げたりする能力といったものを私たちが人類として際立たせること――まさにそうしたことも類を見ない破滅をもたらすような能力を私たちに与えられることによって、どれだけ悲劇をもたらす誘発剤となってしまうか。

物質的な進歩、あるいは社会的な革新によって、どれだけ私たちはこうした真実が見えなくなってしまうのか。

より高い信念という名の下、どれだけ安易に私たちは暴力を正当化してしまうようになるのか。

どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束します。にもかかわらず、信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられないのです。

国家は犠牲と協力で人々が団結するストーリーをこしらえ、優れた功績を認めるようになります。しかし、自分たちとは違う人々を抑圧し、人間性を奪うため、こうしたものと同様のストーリーが頻繁に利用されたのです。

科学によって、私たちは海を越えて交信したり雲の上を飛行したりできるようになり、あるいは病気を治したり宇宙を理解したりすることができるようになりました。しかし一方で、そうした発見はより効率的な殺人マシンへと変貌しうるのです。

現代の戦争が、こうした現実を教えてくれます。広島が、こうした現実を教えてくれます。

技術の進歩が、人間社会に同等の進歩をもたらさないのなら、私たち人間に破滅をもたらすこともあります。原子の分裂へとつながった科学的な変革には、道徳的な変革も求められます。

だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。

私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像します。

私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。

私たちは、声なき叫び声に耳を傾けます。

私たちは、あの悲惨な戦争が、それ以前に起きた戦争が、それ以後に起きた戦争が進展していく中で殺されたすべての罪なき人々を追悼します。

言葉だけでは、こうした苦しみに言葉に表すことはできません。しかし私たちは、歴史を直視するために共同責任を負います。そして、こうした苦しみを二度と繰り返さないためにどうやってやり方を変えなければならないのかを自らに問わなければなりません。

いつの日か、証言する被爆者の声が私たちのもとに届かなくなるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません。その記憶があれば、私たちは現状肯定と戦えるのです。その記憶があれば、私たちの道徳的な想像力をかき立てるのです。その記憶があれば、変化できるのです。

あの運命の日以来、私たちは自らに希望をもたらす選択をしてきました。

アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、はるかに多くのものを勝ち取ったのです。

ヨーロッパ各国は、戦場を交易と民主主義の結びつきを深める場に置き換える連合を構築しました。抑圧された人々と国々は解放を勝ち取りました。国際社会は戦争を防ぎ、核兵器の存在を制限し、縮小し、究極的には廃絶するために機能する組織と条約をつくりました。

それでもなお、世界中で目にするあらゆる国家間の侵略行為、あらゆるテロ、そして腐敗と残虐行為、そして抑圧は、私たちのやることに終わりがないことを示しています。

私たちは、人間が邪悪な行いをする能力を根絶することはことはできないかもしれません。だから、国家や私たちが構築した同盟は、自らを守る手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。

私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。

それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。

平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。 なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。

私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。

人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っ ています

アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。

亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。

世 界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値がありま す。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。

出典:オバマ大統領の広島スピーチ全文 「核保有国は、恐怖の論理から逃れるべきだ」


 

このスピーチを文面通りに受け取れば、異論を挟む余地はありません。

全面同意です。

そのウラにあるしがらみや思惑、アメリカの国民感情・国内事情など、深読みすればキリがありませんが、少なくとも原爆を投下した当事国の現職大統領が被爆地・広島でこの言葉を述べたことは大きな意味があると思います。

 

謝罪も反省もないなら来る意味はない、そう言う方もいます。

その気持ちはよくわかります。

特に実際に被曝した方、原爆によって家族を亡くされた方などは、オバマ大統領の訪問に怒りと悲しみで震えた方も多いかもしれません。

しかし一方で、この世界から核兵器を無くしたい、そのための大きな一歩だと評価する声もあります。

 

戦争に「いい戦争」というのは無いと思います。勝った方が正義とも限らない。負けた方が悲劇とも限らない。勝っても負けても引き分けても多くの尊い命が失われ、命ばかりでなく文化や環境なども失われます。どちらが先に手を出したかとか、どれだけ多くの被害を受けたかとか、どれだけ残虐な攻撃をしたかとか、色んな見方があるとは思いますが、日本が正しくてアメリカが間違ってるというわけではありません。原爆によって広島・長崎では多くの方が被害を受けましたが、被害を受けたのは広島・長崎だけではないし、もちろんアメリカも日本の攻撃によって大きな犠牲を払っています。

中国からは「日本は被害者としての面が強調されすぎている」という牽制コメントがあったそうですが、実際に日本もアジアの国々へ侵略してきた加害者でもあるわけで、その他にも戦後70年を経ても責任を問われている問題が諸々ありますが、結局それらのほとんどがどちらも国レベルでは加害者であり被害者でもあるわけです。

 

しかし、いつまでも責任や謝罪・反省の有無に固執していても先に進めないんじゃないでしょうか。

オバマ大統領に謝罪を求めてもそれで問題が解決するわけではないし、原爆投下を決断したのはトルーマンでありオバマではありません。そのトルーマンの孫は祖父の判断は誤りだったと現在は核廃絶のために積極的な活動を行っています。アメリカでは原爆投下を是とする意見が多いものの、比較的若い世代では原爆投下はするべきではなかったという意見が過半数を超えているという調査結果もあります。

時代も人の気持ちも変わってきている。

謝罪の気持ちは言葉にせずとも心の中で想いを馳せ、先人たちの過ちは反省の糧とし、これからを生きる世代に同じ悲しみや苦しみを与えないように、同じ過ちは繰り返さないという強い気持ちをこの地球に生きる全ての人々の共通認識にする未来志向こそ最も大切なことではないかと思います。

綺麗事の理想論かもしれません。言葉で理解できても気持ちは許せないという方もいるでしょう。

でも、自分たちと同じ苦しみを繰り返してほしくないという気持ちが一番だったからこそ、被爆者の方はオバマ大統領と握手できたのだと思います。

 

願わくば、今回の広島訪問やスピーチがポーズだけに終わらず、核兵器のみならず戦争そのものがこの世からなくなるように変わっていってほしいものです。

そして、それをしていくのはオバマ大統領だけでなく、私たち一人ひとりです。

 

また、71回目の夏が来ますね。